
4月18日(土)放送の『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』(BS日テレ 午後9時~9時54分)は、元日産GT-R開発責任者の水野和敏さんが登場。水野さんが最後に手掛け、鮮やかなスペックで世界を魅了した日産GT-Rを深掘りする。
水野さんは、1972年に日産自動車に入社。サニーやシルビア、スカイラインなどの人気車を世に送り出してきた。その一方で、レーシングチームの監督兼チーフエンジニアとしてレースにも参戦。国内外のレースでその名を轟かせた。
そんな水野さんが、日産GT-R成功秘話を披露。開発費用は通常の半分以下だった?空力性能を向上させたのは、水野さんの親指?など、次々と飛び出す驚きのエピソードに一同大興奮。さらに小木博明が「役に立つんですか?」と思わずツッコんだ、開発チームの意外なメンバーとは。GT-Rがベンチマークにした車も登場。これまで語られなかったR35 GT-Rの全てが明らかになる。
水野さんが「フルカーボンのレーシングカーに勝てる工場生産の市販車を作る」と決心したのはル・マン24時間レースに挑戦した1995年のこと。はるばる日本から駆け付けてくれたファンによる熱い声援に突き動かされ、一念発起したのだという。レースが終わったその日には構想を練り始め、そこから9年がたった2004年に本格的な開発をスタートさせた。
当初のGT-R開発コアメンバーは、通常の半分以下である50人で構成されていたと話す水野さん。その人数だけでも驚きだが、開発費用は通常の半分以下だったと告白し、おぎやはぎを驚かせる。続けて水野さんは「世界にない新しいものを作る作業ということで、仕事の手順も組織も技術もなかった」と当時を回想。少数精鋭で作り上げていった斬新な舞台裏をたっぷり語る。多くのファンをとりこにする性能を備えているにもかかわらず低価格販売を実現できた秘密、そして通常8年から10年かかるといわれる車の開発期間をわずか3年でかなえた水野さんならではのすごワザとは。
開発当時、繁忙期にあった日産。水野さんは、開発を進めたくてもエンジニアのスケジュールが確保できず頭を抱えていたという。そんな中、現れた救世主は意外な業界のエンジニアたち。当時不況だったその業界では早期退職を募っていたそうで、水野さんは退職後のエンジニアたちを雇用。その数は開発メンバーの80%を占めていたと明かす。「乗用車なんか見たこともない方たちでした」と聞いた小木は「そのエンジニアの方たちって、役に立つんですか?」と直球質問。それに対する水野さんからの“それこそが成功要因の一つ”ともいえる回答には小木も納得。「なるほどなるほど!」と矢作兼もうなったその内容とは。
ベンチマークにしていた名車は、ドイツの超がつく有名車。なぜこの車をベンチマークにしていたのか。実は、GT-Rの開発がドイツで行われたこともこの車を意識した道場破りの精神だったという。「名車のお膝元でそれよりも速い、公の前で結果を証明する、これこそが最高のブランド戦略です」と話すと、常に自分の周りにいたパパラッチが世界中に情報を発信してくれたおかげで「正式発表時にはGT-Rがベンチマークしていた車よりも速いことが周知のことになっていたと」水野流ブランディング戦略の効果を明かす。
販売が始まってからも当時主流だったカタログは作らずに独自の宣伝方法を貫いた水野さん。写真を使わずにどうして世界的なブランドを構築できたのか。世界から“ミスターGT-R”と称される水野さんが注いできた熱い思いと知られざるエピソードが明かされる。
番組情報
『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』
BS日テレ
2026年4月17日(土)午後9時~9時54分
出演者:おぎやはぎ、今井優杏(自動車ジャーナリスト)
ゲスト:水野和敏
©BS日テレ











